あの夢を見てから消えない胸騒ぎ。
それが何なのかわからないが、
「早く」と酷く京の心をかきたてる。
そんな焦燥感を拭えぬまま
3日が経過した昼下がり、紅丸が見舞いに草薙邸を訪れた。

「よォ。どないでっかー」
「…ってお前は拳崇か」

陽気にやって来る紅丸に気持ちを和ませながら、部屋に迎え入れる。
差し入れにもらったケーキを美味そうに食べながら会話していた京が、
ふとした瞬間に上の空になり、そのまま押し黙ってしまう。
「何だ?ケーキまずかったか?」
「………」
問い掛けても返事がないので、訝しげに眉をひそめながら、顔を覗き込む。
「おい……京?」
「え…!?な…何だ?」
突然眠りから覚めたように驚いた表情の京に、呆れた様子で溜息を洩らす。
「何だじゃねェよ。会話の途中で黙り込んじまうから、ビックリするだろ?」
「………悪ィ」
珍しく素直に謝る相手に面喰らいながら、ズズッと音をたてて紅茶をすする。
何か相当思い悩む事があるのだろう、と本当に申し訳なさそうに
しょんぼりしている表情に、長年の付き合いから推測する。


「大方、八神の事でも考えてたんじゃねえの?」

「へっ……」

ポツリと呟いた己の台詞に、即座に『しまった』と顔を歪ませる。
京があまりにも普段通りにしていたので、
記憶喪失だという事を失念してしまっていた。
聞いていなければいい、と思いつつ顔を上げる。




「なっ……何でそこに庵の名前が出てくるんだよッ!!」


その先には、顔を真っ赤に染めて慌てふためく京の姿が。
思わぬ出来事に驚いてぽかんとしている紅丸の表情に、
疑っているのだと勝手に解釈して、
次第に俯いていく。
「庵は関係ねェよ。ただ……ちょっと変な夢見てさ……」
『庵』と平然と呼んでいる事から、まだ記憶が回復していないとわかるが、
それでもやはり庵の中に心惹かれるものがあるのだろう。
『このまま記憶が戻らなくても、いずれ京は以前のようになるかもな…』
そう思いながら、ポンポンと頭を撫でながら、悪意はないのだと伝える。
「あんまり思い詰めるなよ?全快したワケじゃねェんだしな」
「……おう」
曖昧な笑みで答えた京を不思議そうに見返し、
「どうした」と口を開きかける。


「―なあ、庵の奴……最近どうしてんの?」

「んだよ…やっぱ気になってんじゃねえか」
面白半分に言う紅丸に頬を染めつつ、顔を見られまいとそっぽを向く。
その反応に笑いを堪えながら、問いに答えてやる。
「俺も最近会ってねんだよな。
 用があんなら電話すればいいだろ?」
「電話番号……知らねェもん」
ふて腐れた様子で答えた京の言い分は最もだと思ったが、
ふとある事を思い付く。
「携帯電話のメモリーに入ってるだろ?」
側に置いてあった京の携帯電話を渡してやると、
それをじっとみつめたまま動こうとしない。
どうしたのだろうかと思っていると、京が携帯から顔を上げる。
「って言うか、使い方知らないんだけど」
「!……そうか」
京の記憶は10年前に遡っているのだ。
今でこそ当たり前だが、10年前の世界ではポケベルなどがあっただろうが、
携帯電話の存在はまだ普及していなかったハズ。
『この10年間で色々進歩したんだなぁ…』
見当違いな感心をしながら、京からそれを借り、操作を始める。

「ええっと…八神……や・が・みっと……」
ピピピと電子音を響かせて、メモリを検索していく。
「!?」
そうしていく内にある事に気付いた。
着信履歴・リダイアル・電話帳・送受信メールボックスに至るまで、
全てのメモリーから『八神庵』の名前だけが綺麗になくなっている。

『確か…前に電話が掛かって来た時には…表示出てたよな』
大会中、控え室に置いてあった京の携帯に電話が掛かって来て、
そのディスプレイに出た文字を見たテリーが
「オイ京、旦那からLove Callだぞ〜」
と携帯から離れた場所にいた京を茶化していた事を思い出す。

メモリーが飛ぶにしてもこのパターンは明らかにおかしい。

考えられる事は―――1つ。


「―紅丸?」
血の気が失せたような表情になっている紅丸を心配そうにみつめていると、
持って来た鞄を探り、紅丸自身の携帯電話を出し、何やら操作を始める。
どうやらどこかへ電話しているらしかったが、
舌打ちと共に数秒で通話を切り、またどこかへ掛け始める。
しかしそれも数秒で終わる。
「どういうつもりだ!!!」
と叫んだその頃には、紅丸の表情は青から赤へ、驚愕から怒りへと変わっている。
「どうしたんだ一体…」
状況が把握出来ず、ただその表情に驚くばかりの京が恐る恐る尋ねると、
その腕を掴んで立ち上がらせる。
「説明は後だ、とにかくついて来い」














草薙邸を出た所にいた真吾を伴い、
3人は紅丸の運転する車で庵のマンションへ向かう。


「それで……一体なにが起こったんですか?紅丸さん」
京と同じく、状況のわからない真吾が、
いつにない様子で怒気を発ち沈黙している紅丸に
困ったように語りかける。
場に丸はその問いに、くわえていた煙草の煙を大きく吸い込む。
「多分…今までで最悪の事態だ」
忌々しそうに吐き捨てて、灰皿に煙草をグリグリと押し付ける。
説明をする間もなく、車はマンションに到着した。

『あれ…?ここ…何か知ってる気が……』

初めて来たのに、既視感を覚える光景に、
ぼんやりと周囲を見回していたせいで、
横を通り過ぎようとした女性にぶつかってしまう。
「ぅわッ!?……す、すいません!!」
「いえ、こちらこそ………―あら?」
ぶつかった60歳前後の女性が、慌てながら詫びる京の顔を見て止まる。


「あら、貴方八神さんの所の…何か忘れ物でもされました?」
「――――え?」

優しい微笑みをたたえながら挨拶を交わす女性に、
思わず京はぽかんと口を開けて固まってしまう。
「何でも大怪我をされて入院してらしたんですってね、
 その後お加減はいかが?」
「っあ……えっと……」
「―失礼ですが、京をご存知なんですか?」
にこやかに会話を続ける女性に、混乱したままの京との間に、
紅丸がスッと助け舟を出すように入ってくる。
「ええ。私はここの管理人ですのよ。オーナーは八神さんですけれど」
「そそそれで、八神さんはいますか!?」
便乗して割り込んで来た真吾に、女性はキョトンとした顔を向ける。


















「―あら、ご存知でないの?
 八神さんなら3日程前に、ここを出ていかれたのよ」






















薄暗く、暖かみの失われた様相の部屋を、呆然とみつめる。


  ―ここは八神さんのものですし、
   あの部屋はフラリと戻てきて、気紛れに使われるから、
   いつもそのままにしてあるんですけどね


女性の言うように部屋のものはそのまま残されていたが、
家具類には白い布に覆われ、主の喪失を無表情に語る。

「……ッに考えてんだアイツは!!!」
やり場のない怒りを吐き出すように、ダン、と壁に拳を叩き付けて叫ぶ紅丸に、
呆然と佇んでいた真吾が我に返る。
「京の携帯のメモリーは自分の分だけキレイさっぱり消去してやがるし、
 携帯とここのどっちに電話掛けても『使用されてない』状態になってるから
 まさかとは思ったが…………ッ!!」
壁を叩きながら、誰に言うでもなく叫ぶ紅丸の言葉で、
ギリギリと歯を噛み締め怒りに震える真吾をよそに、
京はフラフラと部屋をさまよっている。
徐々に強く痛みを訴え始めて来る頭を押さえながら、
誘われるように居間のテーブルへ向かう。

そこには1枚の紙が折り畳んで置かれていた。
―まるで自分がこのテーブルに来るのを知っていたかのように。


手に取って紙を開くと、庵らしく一文しか書かれていなかった。


だが、それを読んだ京の手が、カタカタと震えている。


「あ……う……ぁ……」


頭がこれまでにない程に激痛を訴え始め、耐え切れず呻きが洩れる。
その声に気付いた真吾が京の側へ駆け寄る。
覗き込んだ京の顔は血の気が失われ、脂汗が溢れ出している。
「草薙さん、大丈夫ですか!?草薙さん!!」
「京、しっかりしろ、京!!」
何とか意識を保たせようと声を駆けるが、
その声はもはや京には届いていない。



「ぅぐぁ……あ……っ―――――――――――――――――――――ッッッ!!!」



頭を抱えて、もはや音にならない程の悲鳴を上げて仰け反ると、
まるで糸が切れた人形のように、ガクンと崩れ落ちていく。




その瞬間、京の手からヒラリと舞い落ちた紙には、
こう記されていた―――











































        『 俺は 一人でいい 』






















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